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October 28, 2006

「I'M WITH STUPID」−政治家の嘘を許さないイギリス国民

あぁ、僕は賛成だよ
あぁ、僕は(“愚か者”と)同じ意見だよ
「I'M WITH STUPID」PET SHOP BOYS

「このシングルは、どうしてその相手と付き合っているのか、自分以外、世界中の誰も理解することができないっていう状況について歌っているラヴ・ソングなんだ。これはまたブレア首相とブッシュ大統領との関係を、ブレア視点から描いている諷刺でもあるんだよね」(ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナント)

 ブレアが大量破壊兵器の嘘をついたことに対して、イギリス国民は最後まで許さなかった。ブレアは退陣を表明し、後継がブラウン財務相に決まらないこともあって、労働党の支持率は低迷したままだ。

 それに対して、小泉首相もイラク戦争を支持してイラクに自衛隊を送ったが、多くの日本国民は最後まで小泉首相を支持し続けた。

 政治家の約束、発言の重みというものに対して、日本とイギリスの国民では捉え方がまったく違う。そのことが、日本とイギリスは同じ議院内閣制をとっているにもかかわらず、政治のあり方が大きく違う一因でもある。

 二大政党制という外面を真似するだけでは、いつまでたってもイギリスの政治に追いつけない。それどころか、似たり寄ったりの二大政党で国民の選択肢が狭まり、与党についた方が数の力に任せて専制政治を行う。どれも日本人が政治というものを蔑視し、議論というものを軽視した結果だろう。当然の報いかもしれない。

 従来からの政治手法を続けて、地元への利益誘導を狙う地元有力者と地元財界、その一方でそんな政治に諦めをつけ、政治を卑しいものとして蔑視するサラリーマン層の庶民。先週行われた衆院補選や首長選の選挙結果からは、そんな状況がみえてくる。棄権する庶民が多いので、選挙結果と民意にずれがでてくるが、当選者は数の力に任せてしまう。そこで、庶民の政治不信はさらに深まる。

 政治不信の悪循環はいつ止まるのだろうか。それがいつになるにしろ、止めるのは庶民自身であるから、庶民自身が政治に関して賢くなるしかない。その際、イギリスが大いに参考になる。

 なぜ、ペット・ショップ・ボーイズが政治的な歌を歌っているのか。それは、日本と違って、イギリスの国民が政治的に成熟しているからだろう。

参考WEB
英与党労働党支持率、87年以来の低水準に落ち込む=世論調査(ヤフー・ロイター)

参考バックナンバー
『ブレア時代のイギリス』−イギリスの労働党と日本の民主党

October 22, 2006

日本人の戦争体験と奴隷根性−『民主と愛国』

 小熊英二著『<民主>と<愛国>−戦後日本のナショナリズムと公共性』は、分厚い本だったが、意外と読みやすい本だった。
 本の内容は一言ではとても言い表せないのだが、ポイントとしては次の二点ではないかと思った。戦前、戦中、戦後と日本人の奴隷根性は変わらなかったこと。同じ時代であっても、戦争体験の違いによって、その人のものの見方が他の人と大きく変わること。

 個人的な感想としては、戦争という内容なので仕方がない面もあるのだが、何か暗い情念に満ちていて、読んだ後、自分の目が血走っているのがわかった。さらに、戦争と政治に興味はあっても、戦後民主主義と戦後知識人にはそれほど興味がわかなかったので、どちらかというと、まだ全部読んでいないジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』の方が私の好みだった。そんな私の好みはともかくとして、『<民主>と<愛国>』が『敗北を抱きしめて』に並ぶ傑作であることは間違いないだろう。

 余談になるが、吉本隆明と江藤淳が対照的な性格であることが印象的だった。たくましい(溺れても死なない!)吉本隆明に比べて、妻を追って自殺してしまう江藤淳。大江健三郎の『万延元年のフットボール』について、大江に「いつまでもそんなことをしていると大人になれないぞ」というような批判をした江藤に対して、大江は「江藤さんは自分の内面を誠実に見ている人だと思うけれども、他人の内部についてはあまり誠実に見ないと思いますね」と江藤に指摘したという。私も、江藤淳は問題があったとしても、基本的には誠実でいい人だったのだろうと思った。

 ここからようやく今回の本論に入るのだが、分厚い本の中から、私が興味深いと思った、戦時中と60年安保の話を抜粋したい。
 安倍首相が祖父である岸元首相を良く思いたい気持ちはわかるが、60年安保の採決でヤクザを使って、与党にも知らせないで独断で強行採決してしまった岸の政治手法を知っていれば、岸に対して弁護の余地もないはずである。よく誤解されているのだが、60年安保では、安保改定の是非以前に、民主主義を否定するような岸の政治姿勢が問題とされたのである。

第1章 モラルの焦土
p.33-34
 元連合艦隊参謀長の日記によると、「大和」出撃のきっかけは、海軍の軍令部総長が、沖縄への特攻作戦計画を天皇に上奏したことだった。そのさい、「航空部隊丈の総攻撃なるや」と天皇の質問があり、総長がその場で「全兵力を使用致すと奉答」したのである。
 こうして、何らの準備もないまま急遽出動を命じられた艦隊は、一方的な空襲をうけて壊滅し、四千名ちかくが死んだ。しかし、そうした命令を下した命令官や参謀が、作戦失敗の責任を問われることはなかった。
(中略)
 特攻隊員の遺書をはじめ、兵士の手紙は軍に検閲されており、定型的な美辞麗句以外の内容は書けなかった。いわゆるエース・パイロットとして知られる坂井三郎は、戦後のインタビューでこう述べている。「当時の新聞でも、海軍部内広報でも、敷島隊(最初に認定された特攻隊)が壮烈なる体当たり攻撃をやった。これによって、海軍航空隊の士気が高揚したと書いてある。大嘘。士気は低下しました。」「全員死んでこいと言われて、士気が上がりますか。……間違いなく下がったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」

p.63
 丸山眞男は1951年の論文で、戦前の教育は個々人の責任意識に根ざした愛国心を育てたのではなく、「忠実だが卑屈な従僕」を大量生産したにすぎなかったと論じている。評論家の小田切秀雄は1946年に、「鬼畜米英」から「民主主義」礼賛に衣替えした者たちを評して、「このような手合には本来『転向』などというものはあり得ない」「迎合するに当ってご主人が変ったというに過ぎぬ」と形容した。

第12章 60年安保闘争
p.507
 1956年の教育委員会法案も、警官隊を導入して強行採決が行われたが、新安保条約の採決はそれ以上に暴力的なものであった。この5月19日に、岸を中心とした自民党主流派は、議員秘書のうち女性や老人を青年名義にとりかえ、総勢六百名ちかい「秘書団」を編成した。社会党側はこの日の午後、本会議場の外交官専用傍聴席に、自民党が雇った「ヤクザ風の男」たちが集結していることに気づいた。

p.509
 この強引な採決方法は、じつは自民党内でも、十分に知らされていなかった。清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側近に促された議長が新安保条約採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが実情だった。
(中略)
その重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員27名が欠席した。
 その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫や河野一郎も退席し、病気療養中だった前首相の石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて、おこって寝てしまった。」議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろう』と暗然とした」という。

p.510
 元A級戦犯である岸が、アメリカの好意を買うために強行採決を行ったとみなされたことは、強い反発を買った。『東京新聞』のコラムは、岸を「天皇の名によって戦争という大バクチをやり、甘いしるを思いきりすった、このキツネ」と形容し、「アイクの訪日も、トラの威をかりようとするキツネの悪ヂエ計画だ」と評した。

p.511
 さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

 ……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。それは、張作霖爆殺−満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぼらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

October 01, 2006

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(3)

 前回に続いて、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。
 引用した部分は、大衆政治の欠点、自由と専政、地方自治、多数の専政等について。
 チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と言ったのは有名だが、トクヴィルを読んで、民主主義は大変な労力を必要とするものだと改めて思った。試行錯誤が大事とはいえ、戦争になってしまっては元も子もないので、民主主義といっても、外交はある程度貴族的な外務官僚に任せておくのも大事ではないかと思った。北朝鮮問題で国民感情が揺れていて、タカ派の安倍政権が発足した現在は、なおさらである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(下)(岩波文庫)から。

第5章 アメリカの民主政治について

p53-54
 民衆の知識をある一定の水準以上に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。
 つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界を成しているのである。
(中略)
 民衆はいつも瞬時に判断しなければならず、もっとも人目を引く対象に惹かれざるを得ない。このため、あらゆる種類の山師は民衆の気に入る秘訣を申し分なく心得ているものだが、民衆の真の友はたいていの場合それに失敗する。

p56
 民主政治の自然の本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。

p107-108
 すなわち、民主主義の政府が他の政府に比べて決定的に劣ると思われる点は、社会の対外的利害の処理である。民主政治にあっても、経験を積み、習俗が落ち着き、そして教育が広まれば、ほとんどどんな場合にも、良識と呼ばれる日常の実際的知識、生活上の小さな出来事を処理するあの知恵はいずれ形成されるものである。社会の平常の営みには良識で十分である。そして教育が行き渡った国民においては、民主的自由の内政への導入が産む利益は民主主義の政府の誤りがもたらすかもしれない害悪より大きい。だが国家間の関係はつねにそれでは済まない。
 外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要ではなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される。

第6章 アメリカ社会が民主政治から引き出す真の利益は何か

p127-128 
 自由である術を知ることほど素晴らしいことはないが、自由の修業ほどつらいこともまたない。専政はこの反対である。往々にしてそれは多年の苦しみを癒すものとして登場する。権利を支え、抑圧されたものを助け、秩序の礎をおく。人民は専政が産み出す一時の繁栄に眠り込み、目を覚ましたときには悲惨な境涯におかれている。自由は逆に、激動の中に生まれるのを常とし、国を分裂させて容易に根づかない。時を経て古くなったとき初めて、その恵みに気づくのである。

p134
 ある種の国では、法律が参政権を与えても、住民が嫌々ながらにしかこれを受け取らない。公共の問題に関わるのは時間の無駄のように思って、狭い利己主義に閉じこもり、垣根をめぐらした四囲の濠割りから一歩も出ない。
 これに対して、アメリカ人が万一、自分自身の仕事以外に没頭するものがないという事態におかれたならば、その瞬間から彼の生命の半ばは奪われたも同然だろう。

p134-135
 疑いもなく、人民による公共の問題の処理はしばしばきわめて拙劣である。だが公共の問題に関わることで、人民の思考範囲は間違いなく拡がり、精神は確実に日常の経験の外に出る。庶民の一員にすぎなくとも社会の統治を任されれば、自分にある種の誇りをいだく。権力の地位にあるとなると、学識に秀でた人々が彼に助力を申し出る。彼の支持を得ようと接触してくる者がひっきりなしにあり、さまざまなやり方で人をだましにかかる連中を相手にしているうちに、利口になるのである。

第7章 合衆国における多数の全能とその帰結について

p150
 そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく、暴政に抗する保証がほとんどない点である。
 合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか。世論にか。多数者は世論が形成するものである。立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する受動的な道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利を持ったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるをえないのである。

p153
 それに国王のもつ力は物理的な力にすぎず、臣民の行為を規制しても、その意志に働きかけることはできない。ところが多数者には物理的かつ精神的な力があり、これが国民の行為と同様、意志にも働きかけ、行動を妨げるだけでなく、行動の意欲を奪ってしまうのである。
 総じてアメリカほど、精神の独立と真の討論の自由がない国を私は知らない。

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