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September 24, 2006

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(2)

 前回に続いて、トクヴィルを手がかりに民主主義を考えてみたい。
 今回は、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。
 1835年に書かれたものであるが、現代に通用する部分が多く、驚かされると同時に、興味深かった。引用した部分は、政治と宗教の関係、プラグマティズム、地方分権等についてである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(上)(岩波文庫)から。

第2章 出発点について、またそれがイギリス系アメリカ人の将来に対してもつ重要性について

p55
 移住者、というよりいみじくも自ら巡礼者(ピルグリム)と称するこの人々は、信奉する原理の厳しさによって清教徒の名を得たイングランドの教派に属していた。ピューリタニズムは単なる宗教上の教義にとどまらず、いくつかの点で、もっとも絶対的な民主的共和的思想と渾然一体となっていた。彼らにとってこのうえなく危険な敵が生じたのはこのためである。母国の政府に迫害され、信奉する原理の厳格な実践を周囲の社会習慣に妨げられて、清教徒は独自の生き方が許され、自由に神を礼拝することのできる未開、未踏の地を求めたのである。

p69-70
 この文明(筆者注:イギリス系アメリカ人の文明)はまったく異なる二つの要素の産物であり、この出発点は絶えず念頭におかねばならない。この二つの要素は他の場所ではしばしば相争ったのに対し、アメリカでは両者をいわば混ぜ合わせ、見事に結びつけることに成功したのである。すなわち、私が言うのは宗教の精神と自由の精神のことである。
 ニュー・イングランドの建国者は教派の熱心な信者であったが、また熱烈な改革者でもあった。いくつかの宗教的信念によってこのうえなく堅く結ばれながら、彼らはあらゆる政治的偏見から自由であった。

p71
 宗教は市民的自由に人間の能力の高貴な実践を見出す。政治の世界は造物主が知性の努力に委ねた場所とみなすのである。宗教は自らの領分では自由にして強大である。だからこそそれは、政治の援けを借りず宗教自身の力で人の心を支配すればするほど、その力が確立されることを知っているのである。
 自由は宗教のなかに、手を携えて戦い、勝利をともにした盟友を見出し、自らを育てた揺り籠、自らの権利の神聖なる源とこれをみなす。宗教こそ習俗の保護者であり、習俗が法律を裏付け、自由それ自身の永続を保証すると考えるのである。

第3章 イギリス系アメリカ人の社会状態

p77
 だが、平等に向けて最後の一歩を踏み出させたのは相続法である。
 政治を論ずる古今の著作家がこれまで、人間社会の動向を左右する要因として、相続法にもっと大きな力を認めていないのは私の驚きである。確かに、この法律は民事に属する事柄だが、これこそどんな政治制度にも先行する位置におかれねばならない。

p85
 アメリカ人に金持ちは少ない。だから、ほとんどあらゆるアメリカ人は仕事をもたねばならない。ところで、およそ仕事には修練が必要である。このためアメリカ人が知性を広く養うことができるのは人生の最初の数年にすぎない。15歳になれば、仕事に就く。かくして彼らの教育は、われわれのそれが始まるころには終わってしまう。それ以後も教育が続く場合には、金になる特別の対象にしか向かわない。仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐに役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。

第5章 連邦政府について語る前に個々の州の事情を研究する必要性

p108
 一般に人間の愛着は、力あるところにしか向かわないことをよく知らねばならない。愛国心は征服された国では永く続かない。ニュー・イングランドの住民がタウンに愛着を感じるのは、そこに生まれたからではなく、これを自らの属する自由で力ある団体とみなし、運営する労を払うに値すると考えるからである。
 ヨーロッパでは時として為政者自身が地域自治の精神の欠如を悔やむことがある。なぜなら、誰もが認めるように、自治の精神こそ秩序と公共の安寧の大きな要素だからである。だが、ヨーロッパの為政者はどうすれば自治の精神を生み出せるかを知らない。地域自治体に力をもたせ、独立を認めることによって、社会の力を分裂させ、国家を無政府状態にさらすのではないかと恐れるのである。ところが、地域自治体から力と独立を奪うならば、そこにはもはや被治者しか認められず、市民はなくなるだろう。

p126
 しかしアメリカの法体系はなによりも個人の利害に訴える。この点にこそ、合衆国の法制を研究する際に絶えず繰り返し見出される大原則がある。
 アメリカの立法者は人間の誠実性にはあまり信をおかない。だが人間は賢明であるとつねにみなす。だから法の執行にあたって、もっとも頼りにするのは人の個人的利害である。
 たしかに、行政の違法によって特定の個人が現実に明らかな損失をこうむったときには、個人の利害が公務員の訴追を促進することは分かる。
 けれども、社会全体に有用ではあっても、個人としては誰もその効用を現実に感じないような法の規定の場合には、進んで告発者となるものは一人もいないであろうと容易に予測される。そうすると、ある種の暗黙の合意によって法が執行することもあるかもしれない。

p153
 地方自治の制度はあらゆる国民の役に立つと思う。だが社会状態が民主的な国民ほど、この制度を本当に必要としている者はないように思われる。
 貴族政にあっては、自由のなかにもある種の秩序を保つことがいつでも期待できる。
 支配層にとって失う者が多いので、秩序は彼らにとって重大な関心の対象である。
 同様に、貴族政の中で人民はゆきすぎた専政から守られているといえる。というのも、専制君主に抵抗する備えのある組織された諸力がそこにはいつもあるからである。
 地方自治の制度を欠く民主制はこのような弊害に対していかなる防壁ももたない。
 小事において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうして大事における自由を支えることができよう。
 一人一人が弱体で、しかもいかなる共通の利害による個人の結合もない国で、どうして暴政に抵抗できよう。
 放縦を嫌い、絶対権力を恐れる者は、地方の自由の着実な発展を同時に望むべきである。

September 18, 2006

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える

 前回の記事「安倍政権の徴農政策−自由民主主義から極右全体主義へ」は、題名がセンセーショナル過ぎたかもしれないが、記事の内容は冷静に書いたつもりである。もし、安倍政権が稲田議員の徴農政策を実行した場合、国民は支持しないだろうが、衆院の多数にまかせて、問答無用で推し進めてしまうかもしれないという内容を書いたつもりだった。

 今回は、更に冷静になって、民主主義について考えてみたい。アカデミックで抽象的な議論をしたところでどれほどの意味があるのかと思われる方もいるかもしれないが、安倍氏が民主主義といかに遠い位置にたっているかがよくわかるかと思う。
 また、徴農のような政策は、自由主義よりは社会主義、民主主義よりは全体主義に近い政策であることは前回も主張したことだが、トクヴィルを読むことにより、さらに理解が深められるのではないかと思う。

 19世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは、ジャクソン大統領時代のアメリカ合衆国を旅行して、『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』を著した。政治学の古典的名著である。
 今回は、トクヴィルの入門書から、民主主義について私なりに抜粋してみた。

 以下、引用は、河合秀和著『トックヴィルを読む』(岩波書店)から。
(注)引用した原文はボーモン編集の全集からで、引用中の(OC,1a,26)は、(第1巻第1部、ページ数)を指す。

序章 トックヴィルと民主主義
2 民主主義の多様性
p11
 20世紀の終りに、民主主義が最終的に実現されたと主張するのは、「歴史の終り」を主張するのと同じく愚かなことであり高慢なことです。今日、民主主義と呼ばれているものがすべてインチキだと主張するのも、同じように愚かで高慢なことです。民主主義の歴史は、民主主義という観念がその時々の歴史の現実に対応しながら不断に変化し、拡大してきた過程です。何か唯一つの最高の定義があるわけではありません。誰かがその言葉の解釈権、その言葉を使う権利を独占しているわけでもありません。誰かがこれこそ民主的と唱えれば、必ずまた誰かがそれにたいして非民主的だ、反民主的だという異議を申し立ててくるはずです。このように不断に異議の申し立てにたいして開かれていること、それこそが民主主義の一つの特徴であるからです。

第4章 政府の不在−『アメリカの民主主義』第一部−
5 多数者の専政
p155-157
 民主主義のもと、すべての権力は多数者の意志から発するとすれば、多数者にはすべてが許されるのか、少数者の自由を侵害することも許されるのか−これが彼のいう多数者の専政です。彼は、あれこれの国民、あれこれの地域の住民が多数決によって定めた一般的法(憲法)だけでなく、「全人類の多数」が定めた法がある。「それは正義と呼ばれる。したがって正義は、どの国民の権利にたいしても制限を課している」と言います。(OC,1a,26)しかしこのいささか抽象的な全人類の正義はいかにして守ることができるのでしょうか。他方で彼は、すべての主権的権力には−それを行使するのが一人か少数者か多数者かにかかわりなく−専政の危険が潜んでおり、その権力が多数者の道徳的権威に裏付けられた場合には危険は一層大きいと指摘しています。「国王の権威は物理的で、人々の行動を規制しても人々の意志を抑制することはない。しかし多数者は物理 的で同時に道徳的である権力を所有しており、それは人々の行動だけでなく意志にも働きかけ、一切の〔さまざまな原理の間の〕対決を抑圧するだけでなく、一切の論争を抑圧してしまう。私はアメリカほどに精神の独立と真の討論の自由が小さい国を知らない」(OC,1a,266)したがってアメリカにおける自由はいつも「不安定」であり、専政に転化する可能性を孕んでいました。
(中略)
それでも彼は、アメリカの観察の中から三つばかりの自由の防禦装置を発見しているようです。一つは、アメリカでは法廷に大きな権限を与えているために、法律家全体がいわば貴族的な地位を占めています。「法律家が彼らに自然に属している地位を反対勢力のない状態で占めている社会では、彼らの態度は優れて保守的になり、反民主的な性質を示すことになるだろうと確信している。」(OC,1a,276)
 第二に、ちょうど土地財産の細分化が個々のアメリカ人に自らの財産権を意識させ、他人の財産権を尊重させるようになるのと同じように、タウン・ミーティングや投票への参加は政治的権利の意識を強める筈です。「民主的政府は政治的権利という観念をもっともしがない市民にまで浸透させる。財産の分散が財産権という一般的理念をすべての人の手に届くようにするのと、まったく同じである。」(OC,1a,249)トックヴィルは、アメリカ滞在中に財産権そのものを正面から攻撃する議論に一度も出会ったことがないのに気づいていました。個々人が自らの権利を自覚するようになれば、特定の地域と時期の多数者の正義だけでなく、彼のいう「全人類の正義」への意識も芽生えてくる筈です。
 第三に、人々の権利意識が高まれば、人々の意見や利益が多様であることも意識されるようになるでしょう。だからこそ多数者の意見と利益が少数者の意見と利益を圧迫する危険も生じます。しかし社会の変化が激しく、その時々に形成される多数者が固定していないとすれば、多様な志向を統合する方向を見出せる筈です。
  
第5章 民主的人間−『アメリカの民主主義』第二部−
3 民主政下の人間のディレムマとその克服法
p175-176
 およそ社会が存続するためには、共通の意見や信念が行き渡っていること、つまりは他人の行動にたいする「合理的な期待」(例えば、ものを買った人は代金を支払うといった初歩的なものにはじまって)が必要です。トックヴィルは逆説的なことに−この逆説はまことにトックヴィルらしい見事な逆説です−、他人にたいする信頼を失った人々は信頼を「公衆」に、つまりは多数者に移すと言います。「こうして民主的な人々の間では、公衆が貴族政の諸国では考えられもしなかったような独特の権力を持つようになる。公衆は、他の人々に公衆の信念にたつよう説得したりはしない。ただ、すべての人々の考えという途方もなく強い圧力を各人の知性に加えることによって、人々にその信念を押しつけ、各人の考え方にそれを浸透させていく。」(OC,1b,18)

p178-179
 ここでトックヴィルが特に注目しているのは、自由な討論と自由な結社の役割です。第1部ではタウン・ミーティング、行政委員の選挙、陪審への参加等について論じられたものが、ここでは一般的な命題として提出されています。
「人々の状態が平等になり、そして人々が個々人としては強くなくなるとともに、それだけ容易に人々は多数者の流れに譲歩し、多数者が捨てた意見に自分一人で立つことがむつかしくなる。」しかし、民主政の社会では新聞があり、新聞の中でも新聞同士の間でも自由な討論があります。新聞は、「読者各人にたいしていわば他のすべての人の名において語りかけ、読者にたいして読者の個々人の弱さに比例して影響を及ぼす。」(OC,1b,120-21)人々は新聞を通じて、自分と同じ意見を持つ人々がいるのを発見し、自分自身の判断に自信をもつようになるでしょう。そして同志たちとともに結社を結び、さらに公衆に向かって働きかけていくことになるでしょう。
 こうして、「人が公共の場で共通の問題に対処しはじめると、彼は直ちに自分は初めに想像していた程には他の市民から独立している訳ではなく、他の人々の支持を得るには自分も他の人々に協力しなければならないことに気づく。」アメリカにはおよそ考え得るあらゆる目的について−商業的なものだけでなく真面目なものや不真面目なもの、道徳的なものや芸術的なものまで含めて−、多様で多数の自発的結社があることに、トックヴィルは気づいています。これらの結社は、人々の多様な要求を確認し、他の人々と協力して行動する道具になっています。またアメリカの政治制度は国民を代表する議会を作るだけで満足していません。「それは各地域に政治生活を与え、社会の他の成員とともに行動する機会、つまりは人々は互いに依存していることを感じさせる機会を無数に作り出している。」(OC,1b,110)
 こうして民主的社会が地方自治と自発的結社に参加していく気質を発展させていけば、個人は市民に、つまり公共の問題に参加していく人に変わっていきます。

第6章 平等と隷従−『旧体制と大革命』−
1 政治家トックヴィル
p190
 このような社会主義の登場を目のあたりにして、トックヴィルは社会主義を何よりも先ず国家権力の強化、一層の集中化への動きと見て反対しました。彼は、社会主義者にたいして、民主主義の名において次のように挑戦します。

 好きな名を名乗りたまえ。しかし民主主義者という名を名乗ってはならない。私はそれに反対する。君はそれに値しないからである。・・・民主主義の名で語るものはすべて、金持ちか貧しいか、有力であるかしがない身分であるかにかかわりなく、すべての市民に与えられている最大限の自由を語るものでなければならない。・・・そうとすれば、民主主義は〔国家権力にたいする〕平等の隷従にはなり得ない。それは平等の自由である。・・・社会主義者が今日、再び確立しようと望んでいるすべての絆は、かつてフランス大革命によって断ち切られた絆ではないだろうか。彼らは国家を主人の地位、自らすべてを監督する地位におこうとしている。(OC,3C,193-95)

September 17, 2006

安倍政権の徴農政策−自由民主主義から極右全体主義へ

 以下の産経新聞の記事は、いろいろなブログで話題になっているので、当ブログで今さら取り上げるまでもないと思ったのだが、マスコミではきれいごとばかりで、この記事のような安倍氏の本質をほとんど話題にしていないことが気がかりに思えたので、今回取り上げることにした。

安倍政権でこうなる 首相主導で「教育再生」(産経新聞)

 ≪“徴農”でニート解決…稲田朋美衆院議員≫  藤原正彦お茶の水大教授は「真のエリートが1万人いれば日本は救われる」と主張している。  真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。  そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない。  それから、若者に農業に就かせる「徴農」を実施すれば、ニート問題は解決する。そういった思い切った施策を盛り込むべきだ。

 安倍政権の教育再生政策とは、若者に奉仕活動を義務づけるだけでなく、徴兵ならぬ徴農を実施することになるようだ。
 中国の毛沢東が実施した文化大革命の下放や、カンボジアのポル・ポト率いるクメール・ルージュが実施した原始共産主義を連想させるプランが自民党からでてきたということは、自民党が自由主義を放棄し始めたことを意味するだろう。

加藤元幹事長実家放火 党内忘却モード(東京新聞)

 8月15日の加藤氏実家放火事件では、小泉首相が8月28日まで沈黙するなど、政府・自民党内に言論弾圧テロを黙認するような空気があった。これは、自民党が民主主義を放棄し始めたことを意味するのではないか。

 これまで、自民党は右から左まで様々な政治家が集まっていたが、自由民主主義というよりどころがあったといえる。しかし、小泉首相の登場により、議院内閣制を強力に運用することにより、自民党が上からのトップダウンの党になってしまった。その後継として極右的な安倍氏が首相になることにより、トップダウンで自由民主主義が放棄される可能性が高い。
 私は、日本の国民が徴農のような全体主義的な政策を支持するとは思えないのだが、自民党が衆院で300議席以上を占めている今、残念ながら、安倍氏がこのような政策を強行できる余地があると思う。

 余談だが、加藤氏は自民党員という立場を守るためなのか、かつてのYKKという盟友への義理なのか、放火事件での小泉首相の対応について、小泉首相をずいぶんかばっていた。私は、ミュンヘン会談でのネヴィル・チェンバレン首相をみる思いがして、加藤氏の優しさはそのうち命取りになるのではないかと思った。

 来年の参院選は、これまでの自由民主主義を継続するのか、それとも自由民主主義を放棄して極右全体主義へ転換するのか、を決める重大な選挙になるだろう。

参考URL
『安倍氏ブレーン』どんな人? 靖国、拉致、教育問題…(東京新聞)
「教育改革国民会議」(第一分科会第4回配布資料「一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)」
文化大革命(wikipedia)
クメール・ルージュ(wikipedia) 

参考BLOG
日本国憲法第13条、第14条、第18条、第19条あたりに抵触するような‐2006年自民党総裁選・その5(bewaad institute@kasumigaseki )

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