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December 24, 2005

ハンナ・アーレントによる労働観の再考(1)

 日本人の勤勉さが、日本を世界第二位の経済大国にさせたともいわれる。しかし、その実態は、過労死する人が後を絶たず、不景気になってからもそれは変わらない。
 労働至上主義は、科学的社会主義を生み出したカール・マルクスなどに源流を求めることができる。その「労働」が高く評価されていることを危険視した政治思想家がハンナ・アーレントである。
 アーレント(1906-1975)はドイツのユダヤ人女性で、ナチスに迫害されてアメリカに亡命した。ドイツの大学で、ハイデガー、ヤスパース等に師事し、哲学を学んだ。『全体主義の起源』など、全体主義の研究でも有名である。
 今回から2回に分けて、アーレントの入門書の引用を通して、アーレントの労働観をみていきたい。現代の日本政治を考えるうえで、不可欠な視点が提供されているように思う。

 以下、『ハンナ・アーレント入門』杉浦敏子(藤原書店)より引用。

 第5章 労働観の再考
一 労働観の変遷
(1)古代・中世の労働観
p129-131
 たしかに生産労働は、あらゆる高次の生の不可欠の条件ではあるが、それは人間から自由な時間とエネルギーを奪い、その結果人々の「徳」(arete)や政治的、文化的活動に携わる力を奪う。それゆえにポリスの市民は、この生産労働を奴隷に強制したのである。アリストテレスは『政治学』の中で次のように言う。
「仕事のうち、偶然の働く余地の最も少ないものが最も技術的なもので、身体の最も害われるものが最も職人的なもので、身体の最も多く使用されるものが最も奴隷的なもので、徳を必要とすることの最も少ないものが最も卑しいものである。」
「・・・無条件に正しい人間を所有している国においては、国民は俗業民的な生活も商業的な生活も送ってはならないことは明らかである(というのは、このような生活は卑しいもので、徳と相容れないからである)。また最善の国の国民になろうとするものは、実際農耕者であってもならない(なぜなら、徳が生じてくるためにも、政治的行為をするためにも閑暇を必要とするから)。」
 徳が生じるために必要なのは労働ではなく、閑暇である。アリストテレスは人間のみが理性を持つと考え、この閑暇において人間が理性を働かせる場合のみ、家や国家をつくりうるとする。古代ギリシア人にとっては閑暇のなかで達成する政治的行為が最も価値ある行為だったのである。なぜそうなのだろうか。
 われわれの行為、思考、言論はすべて何らかの善を目的にしている。ある行動の目的はさらに高次の行動のための手段であり、この目的−手段−目的の系列を最後まで推し進めていくと、他の目的ではなくそれ自体のために追求されるべき最高の善に達する。人間にとって最高善とは「幸福に生きる事」であり、それを目指す学ないしは術をアリストテレスは「政治」(politike)と名づけた。「政治」は、共同体全体の幸福の実現を目的にし、その目的の追求によって人間が自分とその属する共同体を道徳的に高める場としてあった。その中で人間は自分を磨くのである。人間の幸福は自分の能力または徳を全体の幸福のために発現させることにある。ポリスの目的は人間の倫理的卓越性の実現と、それによる人間としての完成にあり、市民の一人一人が人間として完成することが、個人にとっても全体にとっても最高善、つまり幸福につながるというのである。

p132ー133
 しかし近代の萌芽とも言うべき宗教改革の時代に、労働観の変化が生じた。ルターは労働を、神の摂理とし、労働を罪の償いとするいわば原罪論から考えるのではなく、「神の召命」(Beruf)であるとした。ウェーバーは、ルターにおいて生じた労働観の根本的変換について次のように言う。
「修道院にみるような生活は、神に義とされるためには、まったく無価値というだけでなく現世の義務から逃れようとする利己的な愛の欠如の産物だとルターは考えた。それどころか彼は世俗の職業労働こそ隣人愛の外的な現れだと考えた。」
 卑しいこととされてきた農民や職人の職業労働を神によって授けられた使命と考えることは、単なる贖罪ではなく、その行為そのもののうちに意義を見いだすことであり、この意味でカトリシズムから一歩踏み出した労働観ということができるだろう。このルターの説をさらに深化させたのがカルヴァンである。彼は恩恵による選びの教説(予定説)を唱える。ウェーバーはこれについて次のように言う。
「人間は生まれながらに罪の状態に堕落し、自らの力で悔い改めることはできない。神はその栄光を顕現するために、自らの決断によってある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定した。この選びの決断は、神の自由な恩恵と愛によるものである。神は永遠の生命に予定された人々のみを有効に召命する。」
(M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』参照)

(2)近代の労働観
p135-136
 このようにして(『統治論』第2論文第5章)ロックは私的所有権を正当化し、各人は生まれながらに自分の身体とその諸能力に所有権を持っているので、労働の結果が本人に帰属するのは当然とした。そして彼はあらゆるものに価値の差異を生じさせるのは、ほかならぬ労働であるとして、その富の源泉である労働に価値をおいたのである。
 労働に価値が置かれる一方で、労働者に対しては勤勉イデオロギー(怠惰な労働者から勤勉な労働者へ)が注入されるという状況が生まれた。しかし、労働という行為様式は人々には容易に受け入れられず、工業労働者として労働することが当然のこととして身体に内面化するようになるには多くの歳月が必要だった。膨大な数の民衆にとって、プロテスタンティズム的な禁欲倫理などは無縁のものであったからである。「倫理の衣服をまとい、規範の拘束に服する特定の生活様式という意味での資本主義の精神が最初に遭遇しなければならなかった闘争の敵は、伝統主義とも名付くべき感覚と行動の様式にほかならなかった。」
(M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』参照)

p136-137
 人間の身体を組織的に操作可能なものへと変換する社会は、フーコーの言う「様々の実験を行い、行動を変えさせ、個々人を訓育したり再訓育したりする一種の機械仕掛け」としての社会であり、誰が指示するわけでない匿名の権力が自動的に機能するオートメーション工場のような社会なのである。フーコーは近代の市民的自由の根拠としての自律が、実は権力の側からの服従強制に呼応する心的規制であり、主体化が従属化につながるというパラドックスを労働の分析において明らかにしたのである。このようにして「勤勉な労働者」「労働こそ人間の本質」というイデオロギーは浸透していったのであるが、まさにこのようなイデオロギーは近代社会に固有のものなのである。
(M.フーコー『監獄の誕生−監視と処罰』参照)

(3)マルクスの労働観
p137
 労働の聖化、絶対化はマルクスによって頂点に達したと言えるだろう。マルクーゼはマルクスの『経済学・哲学草稿』の中から「労働は人間的自由の現実的表現である。労働することで人間は自由になり、労働の対象のなかで人間は自由に自己を現実化する」というテーゼを導き出す。これは外部にある世界に向かって自己を対象化していく活動として労働をとらえる考え方である。つまり、主体としての人間が自己の活動を通して客体である対象的世界に働きかけることによって、自己の営みをその中に刻印していくことを意味している。
(H.マルクーゼ『初期マルクス研究』参照)

p139
 マルクスのこの「労働」概念は、アーレントの言うところの「労働」ではなく、目的と手段によって決定された合目的的な制作行為であり、自然に働きかけて耐久的な生産物をつくり出すという意味で「仕事」である。アーレントによれば「労働」とは、前にも述べた通り、生命の必然に拘束された際限のない労苦である。この点でアーレントはマルクスが「労働」と「仕事」を混同していると批判する。
 ではこのマルクスの言うような労働観のどこに最も問題があるだろうか。それは、この労働観が労働を通して人間が自己実現を行うということを強調しすぎるために、労働の理想像を描き、一種のユートピア的労働論をつくりだしている点にある。なるほど自由で創造的な労働(動物的ではなく、また疎外から解放された労働)というものがありえるかもしれないが、現実の労働には「強いられたもの」という側面も必ず存在するからである。

p141-142
 また、労働至上主義を批判した異色の社会主義者としては、P・ラファルグがいる。社会主義の思想が「労働の権利」を軸に展開する中で、彼は「労働からの解放」を掲げる。
(中略)
 ここには勤勉イデオロギーに対する痛烈な批判が見てとれる。労働による自己実現の思想がかえって桎梏となって人間を苦しめているのであり、むしろ「怠惰」が人間を解放する可能性が述べられているのである。
 S・ヴァイユもまた過酷な工場労働の体験から、近代産業社会における現実の労働が、近代の労働の理念から、いかに隔たっているかを説き、自由のない隷属的な労働に呻吟する労働者の姿を描き出す。
(中略)
 この状況は現代のオフィスワークの現実にもあてはまる事柄であろう。しかし、彼女はだからといって労働一般からの解放を目指したわけではない。労働は人間にとって必然性の圧力で行われる不可避の営みであった。「人間が生きるかぎり・・・必然性の圧力はただの一瞬といえども、決して緩和されないだろう。・・・労働の観念そのものがほとんど消滅した生活が、情念と、またおそらくは愚行とに委ねられるだろうことを理解するためには、人間の弱さを考えさえすれば充分である。」
(P・ラファルグ『怠ける権利』参照)
(S・ヴァイユ『工場日記』『抑圧と自由』参照)
(続く)

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