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March 13, 2005

リップマンの『世論』(2)

 第一次世界大戦中の1917年11月、ロシア革命で成立したボルシェヴィキ政権は「平和に関する布告」で帝政ロシアの秘密外交文書を公表した。ボルシェヴィキ政権は、連合国に無併合・無賠償・民族自決の諸原則にもとづく講和を呼びかけたが拒否されたため、1918年3月、ブレスト=リトヴスクで単独講和条約を締結する。

p33(下巻)
 大方の疑問は、アルザス=ロレーヌやダルマチアはイギリス人の生命にして何千人分の値打ちがあるのか、ポーランドやメソポタミアはフランス人の生命にして何千人分の値打ちがあるのか、というかたちで問われた。アメリカでもこのような疑問はまったく出ていないわけではなかった。連合国側による戦争の大目的全体が、ブレスト=リトヴスク会議への参加を拒否したことによって守勢にまわってしまっていた。

 1918年1月、アメリカのウィルソン大統領は、ボルシェヴィキ政権の講和の呼びかけに対抗して、秘密外交の廃止・海洋の自由・軍備縮小・民族自決・国際連盟の設立などを含む十四ヵ条の平和原則を発表する。
p34
 これ(筆者注:十四ヵ条のこと)が箇条書きされたのは正確を期すための工作であるとともに、ひと目で事務的な文書であるという印象を生み出す方策であった。「戦争の目的」ではなく「講和条件」を声明するという発想は、ブレスト=リトヴスク会議にまさしく該当するような代替をはっきりと打ち出す必要から生じたものであった。これらの条件は、ロシアとドイツの会議という大舞台に代わる全世界規模の公的討論というはるかに壮大なスペクタクルを提供することによって、一般の注意を奪還しようと図ったのである。

p39
 「十四ヵ条」が外見上は満場一致で熱心に迎えられたにせよ、それが一つの基本方針に対する満場の同意をあらわしていると思うのは誤りというものだろう。誰もがこの「十四ヵ条」の中に自分の気に入るものを何か見つけて、この面を、あるいはあの細部を、と力説した。しかし、思い切って議論に踏み切るものはなかった。文明世界の底に横たわる、さまざまの葛藤でいっぱいにふくらんだウィルソンの言い回しが受け入れられた。そうした語句は、対立するさまざまな観念をあらわしていたのだが、それが呼び起こした感情は共通であった。そのかぎりにおいて、西側の諸国がさらに十か月にわたって耐えなければならなかった絶望的な戦いの日々、人びとを鼓舞する役割を果たしたのだった。

 1919年1月、パリ講和会議が開かれたが、十四ヵ条はイギリスとフランスの抵抗を受けて、国際連盟の設立以外はほとんど受け入れられなかった。1919年6月に調印されたヴェルサイユ条約は、理想よりも戦勝国の国益が優先され、民族自決の原則も東ヨーロッパにしか適用されなかった。
 十四ヵ条を執筆したリップマンの悔しさが次の文からにじみ出ているように思う。
p41
 ヨーロッパ側の起草者たちは、「人類の権利」から「フランスの権利」、「イギリスの権利」、「イタリアの権利」へと、象徴としての言葉の階層を下ってきた。彼らは一切の象徴を用いることを断念したのではなかった。彼らが切り捨てたのは、自分たちの選挙人たちの想像力の中に戦後永続的に根付くはずのないような象徴のみである。彼らは象徴的手法を用いることによってフランスの統一を守ったが、ヨーロッパの統一を守るために危ない橋を渡る気はなかった。フランスという象徴にはすでに深い馴染みがあったが、ヨーロッパという象徴の歴史は浅かった。

March 12, 2005

リップマンの『世論』(1)

 リップマンの『世論』は「ステレオタイプ」という言葉で有名な政治学の古典だが、私は以前から知っていたものの、読もうとは思わなかった。先日、『世論』ぐらいは読んでおきたいと思うことがあり、それを機会に、読んでみることにした。
 岩波文庫で上下2冊に分かれていて、読みにくいところはないが、長いので、面白いところも多い反面、退屈なところも多く、最後まで読むのに少し時間がかかった。
 古典の書評は私にはできないので、面白いと思った箇所を何回かに分けて抜粋してみたい。
 1回目の今回は、リップマンの紹介から入りたい。上巻の解説にリップマンの略歴が書かれているので、以下にその部分を要約してみる。

 ウォルタ・リップマン(Walter Lippmann 1889-1974)はアメリカのジャーナリスト。
 ハーバード大学を卒業後、市政腐敗を暴露する雑誌『エヴリボディースマガジン』の編集助手となる。
 1912年、市政改革の希望に燃えて、ニューヨーク州スケネクタディ市の新市長で社会主義者のG・ランの補佐になったが、自分が実際政治には全く向いていないことに気づき、4ヶ月で辞職する。23歳。リップマンは社会主義者が社会主義について何も知らないことを知って深い幻滅を味わったという。(社会主義者が社会主義について何も知らないことについては、『世論』でも取り上げられている。)
 1917年4月、アメリカが第一次世界大戦に参戦する。同年10月、28歳のリップマンは情報将校として対独戦の心理作戦に従事するためにフランスに渡る。さらに、和平に関する「十四ヵ条」原案作成の秘密グループに加わり、十四ヵ条のうち、八ヵ条はリップマンが執筆し、更に、アメリカ政府の公式見解も彼が起草した。しかし、和平工作は実らず、和平工作が完了する前に官職を辞して、雑誌スタッフに戻る。
 1919年、ヴェルサイユ条約の失敗について、2つの小論文を雑誌に発表。30歳。
 1922年、『世論』を発表。同年、民主党系『ニューヨーク・ワールド』紙の論説委員に迎えられる。33歳。
 1931年、同紙が廃刊すると、共和党系『ヘラルド・トリビューン』紙のコラムニストになる。42歳。民主党系から共和党系の新聞に移ったことに、当初、彼が思想的に変節したとみる人が少なくなかったが、次第にその疑念は影を潜め、国際的な影響力を及ぼすようになった。
 1963年、『ヘラルド・トリビューン』紙から、『ワシントン・ポスト』紙と『ニューズ・ウィーク』誌に移る。74歳。
 1965年頃から、ベトナム戦争に反対するリップマンとジョンソン大統領の間で、「リップマン戦争」と呼ばれる抗争が始まり、1967年5月、リップマンはコラムの執筆を断念し、ワシントンからニューヨークに住居を戻す。78歳。
 
 ウィルソン大統領の十四ヵ条の一部を執筆していたことを知って驚いたが、それがわずか28歳のときだった。さらに、後生まで残る名著『世論』を書いたのが、なんと33歳。すごい人は若くから活躍するのだなと思ったが、リップマンの本当にすごいところは若くから活躍したことではなく、80歳近くまで批判精神を変えずに、発言し続けたことだろう。リップマンが80歳近くまで、ホワイトハウスの圧力にもかかわらず、ベトナム戦争に反対し続けたことを知って、ジャーナリストのかがみをみる思いがした。体は年老いても、内面は「十四ヵ条」を執筆した頃と変わらなかったのではないかと思った。
 次回は、十四ヵ条の平和原則について取り上げたい。

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