July 11, 2009

憲政を破壊した麻生首相

 7月12日の都議選を控え、自民党内は混乱状態になっているようだが、7月5日の静岡県知事選で民主党が分裂選挙だったにもかかわらず、民主党候補が当選していることから、都議選の結果及びその後の国政の政局については、政治に関心がある人ならある程度予想がつくというものである。

 今回取り上げたいのは、都議選後の政局ではなく、国政におけるこれまでの時間の浪費についてである。麻生首相は、政権を投げ出した福田首相の後を受けて発足した。実質的には自民党の選挙の顔として、形式的には選挙管理内閣として発足したはずである。それが本格政権を目指したためにおかしなことになり、時間の浪費となった。

 選挙を経ずに首相になったこと、直近の国政選挙である参院選で民主党が勝利していることから、麻生政権には政治的正統性がない。戦前、政党政治の慣例になっていた憲政の常道というものに反するのである。にもかかわらず、衆院の3分の2で再議決できるという憲法の規定を乱用するというのは憲政の破壊にほかならない。

 さらに、選挙管理内閣が半年以上続いたことで、本格政権ができていれば実行できたことができず、国政が停滞した。世界同時不況が起こったこと、米国で政権交代したことを考えると、この半年の政治の停滞は致命的だったかもしれない。イタリアで行われたラクイアサミットでほかの首脳からまともに相手にされなかったというのは、政治の停滞における氷山の一角に過ぎない。

 大正デモクラシーのとき、「閥族打破、憲政擁護」というスローガンがあった。大正元年12月5日、山県有朋ら閥族とむすびついた陸軍が西園寺内閣を総辞職させたとき、政党人である尾崎行雄や犬養毅がこのスローガンを叫んだ。次の国会では、数万人の国民が国会議事堂を取り囲み、発足したばかりの桂内閣は大正2年2月11日、総辞職に追い込まれた。

 もし、尾崎行雄が生きていたら、麻生首相に向かって憲政擁護を叫んでいたのではないか。自民党は過去の日本の歴史を美化するのが好きなようだが、戦前の政党政治からも学ぶべきだ。それ以前に、漢字の読めない首相では、戦前の歴史は知るよしもないということなのか。

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July 10, 2009

日勤教育の責任者こそ起訴せよ

 2009年7月8日、JR西日本の社長(現場が急カーブに付け替えられた1996年当時の常務取締役鉄道本部長)が業務上過失致死傷罪で在宅起訴された。起訴された理由は、2005年4月25日の福知山線脱線事故(乗客106人死亡、562人重軽傷)当時、カーブの危険性を認識できたのに、経費の増大を懸念し、ATSを設置しなかったというもの。

 事故から何年たっても捜査が進展しないので、私はてっきり、当局が捜査を断念したのかと思っていた。当時から起訴は難しいといわれていたので、社長一人だけでも起訴したのは一定の成果といえなくもない。

 しかし、気になる点がある。事故の理由は日勤教育にあったことは周知の事実であり、運転士が日勤教育を恐れるあまりパニックになって、事故を起こしたということが通説になっている。その日勤教育を不問にして、ATSのみについて起訴してよいのだろうか。

 兵庫県警が既に書類送検している元運輸部長二人については、懲罰的な日勤教育で運転士に心的圧力をかけたとされるが、日勤教育を事故原因とする証拠がないことを不起訴の理由としている。

 ATSなど今後の事故防止策については、法改正や国土交通省による行政指導で対応できるはずで、裁判では第一義的に事故の原因を問うべきではないか。

 証拠がない負け戦になったとしても、鉄道史上類をみない大事故の原因になった日勤教育について裁判で争うこと、そのことこそに意義があり、それをしなければ犠牲になった遺族も運転士も浮かばれないように思う。あらゆる職種で労働環境が悪化しているこの時代に、裁判の勝ち負けを越えて、検察が裁判で訴えることは意味が大きかったのではないか。

JR福知山線脱線:JR西社長起訴 「会社の責任は」 長女亡くした奥村さん /兵庫(毎日新聞)

JR西日本の脱線事故はこのまま風化してしまうのか(Cityscape Blog)

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November 22, 2008

KY−筑紫哲也氏の手紙

 空気を読め、さもないとお前は時代遅れだぞ、仲間外れだぞ、とおどしている。そうでなくとも「命令型」でよかった日本語を「懇願型」の婉曲話法に変えていくほど心優しい若者たちが、この同調努力にどう耐えられるのだろうか—と私はまたお節介な心配をしています。
 それどころか、この国の歴史のなかで、何を残し、何を捨ててもよいから、これだけはあなたたちが引き継いで欲しくはないと私が思い続けてきたもの、それが「KY」に凝縮している思考なのです。
 言うまでもなく、この国の歴史のなかで最大、最悪の国家的失敗(破滅)は1945年8月15日に決着しました。なんでそんなことになったのかを辿るとやはり「KY」に行き着くのです。その話をもっときちんとできる「手紙」を書かないといけませんね。ではまた。
「青春と読書」10月号(集英社)に連載されていた筑紫哲也氏の「若き友人への手紙」第二回から一部抜粋 

 周知のように筑紫氏は亡くなったため、手紙の続きは読むことができない。私もKYについては同じようなことを考えていたので、筑紫氏による戦前のKYについての話はとても読みたかった。
 私も以前は筑紫氏を生温いと感じたこともあったが、最近は芯の強さを持ちながらもアンテナの広さとその卓越したバランス感覚はほかのジャーナリストにはみられないものであり、尊敬の念を感じていた。
 筑紫氏は最後の多事争論で日本はガンにかかっていると話していた。的を得ているとしか思えない鋭い表現だったが、最近明るいニュースもあった。米国でオバマ氏が大統領に当選したことだ。このニュースには、筑紫氏も天国で喜んでいることだろう。
  

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September 16, 2007

必要なのはテロ特措法ではなく労働環境特措法

 安倍首相が臨時国会が始まったばかりの時点で退陣してしまった。このことについては、ただ呆然としてしまったというしかないが、いくつか感想があるので記しておくことにする。

1 安倍首相は自分の思いどおりに美しい国づくりができなくなったこと

 内閣改造で安倍首相は自分の思いどおりの政策が打ち出せなくなってしまったのではないか。実力者が内閣に入ったことに加えて、官房長官に与謝野氏が就いたことで、タカ派的な政策を進めることが難しくなったのかもしれない。

2 日本政府にとってアメリカ合衆国に従うことが至上命令であること

 安倍首相は参院選惨敗を気にしない見事な鈍感力をみせたが、テロ特措法のためには政治生命を賭け、首相退陣するというとても敏感なところをみせた。これは、民意は気にしないが、アメリカの意向は気になって仕方ないということで、いかに安倍首相がアメリカに従属していたかを示している。安倍首相はタカ派ではあるが、ナショナリストではなかったのかもしれない。

3 日本は総理大臣まで心を病むような国であること

 日本は格差社会が進み、過労死する人がいる一方で、失業している人や働いても生活していけないほどの給料しかもらえないワーキングプアの人がいる。労働環境の劣悪化や、失業に苦しむ人などで、自殺者は先進国最大の3万人超となっている。このストレスに満ちた国のなかで、格差拡大に貢献していた首相も例外でなく、心を病んでしまったというのはブラックジョークを通り越して、なんだかもの悲しい。

 首相は一般のサラリーマンとは違うとはいえ、日本的労働環境から逃れることはできなかったということだと思う。小泉元首相のように時々好きなオペラを見に行くなど、うまく息抜きをすることができなかったところに、自分の内閣で実力者に取り囲まれ、アメリカからプレッシャーをかけられ、窒息状態になってしまったのだろう。安倍首相の自己責任といえばそれまでだが、周囲の人もメンタルヘルスの認識に甘さがあったのではないか。

 今、日本に必要なのは、アメリカのブッシュ大統領に忠誠を誓うためのテロ特措法ではなく、安倍首相も含めた日本人のための労働環境特措法ではないか。自殺者3万人超という現状を考えれば、労働環境とメンタルヘルスについて、緊急に特別措置しなければならないだろう。

 なお、週刊現代による安倍首相の脱税疑惑が、首相退陣の理由の一つであったことも事実だろう。しかし、私は上に書いたようなことから、脱税疑惑がなくても安倍首相は政権を投げ出していたように思えてならない。

参考ブログ
病む社会を感じる(GK68's Redpepper)
安倍総理、辞任表明(霞が関官僚日記)
安倍スキャンダルは本物−−自民党崩壊の地響き(ブログ時評)

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September 15, 2007

「シッコ」−民営化信仰に対する警告 

 マイケル・ムーア監督の「シッコ」をみて、日本に公的な健康保険があって本当に良かったと思った。小泉元首相が郵政民営化ではなく、健康保険民営化をしていたら、日本人もこの映画のように過酷な状況に陥っていただろう。テレビで外資系保険会社が大量にCMを流し、厚労省が混合診療解禁を検討していることを考えれば、健康保険民営化も十分ありえる話である。早くも産科医療は崩壊寸前なので、これを口実に医療の民営化を一気に進めるというのも一つのシナリオとしてありえるだろう。

 アメリカの悲惨な医療事情と比較する形で、カナダ、イギリス、フランス、キューバの現状が紹介される。キューバは共産国なので比較するには少し無理があるが、隣国のカナダで国民皆保険が機能していて、アメリカでは無理というのは理屈が通らない。アメリカの国民皆保険反対派は、皆保険は社会主義的だから良くないという。それならば、アメリカ以外の先進国はすべて社会主義国家ということになってしまう。まったく理屈が通っていないのだが、そんな屁理屈が通ってしまうのがアメリカらしいところである。

 「シッコ」はこれまでのムーア監督の作品と比べると、価値中立的で説得力がある。医療は政治に左右されてはならない。資本主義社会であるか共産主義社会であるかを問わず、保守政権であるかリベラル政権であるかを問わず、人は健康に暮らす権利があり、政府は医療に力を入れるべきであって、政治を利用して人の命を金儲けの道具にすべきではない。そのように考えれば、この映画は政治的な映画ではないといえる。

 病院が入院費を払えない患者を道に捨てるシーンなど、涙が出てくるシーンもあり、これまでのムーア作品とは一線を画している。

 近年の日本人は、民営化すれば何でもうまくいくという民営化信仰が篤いので、「シッコ」は日本人に対する警告の映画でもある。

シッコ公式サイト
マイケル・ムーア最新作『シッコ』公開前から大評判(暗いニュースリンク)

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August 05, 2007

憲法9条を救った年金問題

 7月29日に行われた参院選は自民党が37議席で、与党が過半数割れという結果になった。過去最低だった1989年の36議席を1議席上回ったからというわけでもないようだが、安倍首相は続投を宣言し、これに対して世論の賛否はほぼ半数に割れている状況である。

 今回、安倍首相は憲法改正を争点にするつもりだったようだが、民主党が追求したこともあって、年金問題が争点となった。それによって、憲法改正を基準にして投票した人は少なかった。

 しかし、憲法改正が争点になっていなかったとはいえ、安倍首相がその気になっている以上、今回の参院選で自民党が勝利していれば、憲法改正の国民投票が実現していただろう。

 今回、民主党が勝利したことで憲法改正は当分遠のいた。私は以前の記事で、今回の選挙は自由民主主義か極右全体主義かを選択する選挙になると予測したが、年金問題による自民党への逆風が、結果的に憲法9条を救い、日本の自由民主主義を救った形となった。

 共同通信社のアンケートによると、今回当選した民主党の参院議員は68・5%が9条改憲に反対している。これに対し、自民党は68・8%が賛成となっていて、民主党は右派議員がいるとはいえ、自民党に比べればリベラルな傾向がみてとれる。

 憲法改正が遠のいたとはいえ、早ければ次の総選挙で改憲勢力が攻勢に出るかもしれない。護憲勢力も一枚岩ではなく、足の引っ張り合いをしている現状がある。共産党など護憲勢力の一部は、民主党を保守的な改憲政党と批判しているようだが、現実には民主党が9条改憲に反対する砦となっている。その一方、民主党の護憲勢力も執行部に対して遠慮せず、奮起していかなければならない。ここで長いものに巻かれて改憲に賛成してしまえば、共産党などから戦犯扱いされても文句はいえない。まるで、直前になって戦争支持に転換してしまった、第一次大戦前のドイツ社民党のようになってしまう。

 9条改憲に反対していくには、9条はイデオロギーではなく、日本が歴史的に獲得した平和に対する気持ちの反映であることを訴えて、保守層の支持を獲得する必要があるだろう。


9条改正反対は55% 集団的自衛権行使も否定的(福井新聞 8月1日)

 共同通信社は1日、第21回参院選の公示前に行った全候補者アンケートから当選者を抽出し、政策課題に関する意識を分析した。
 任期中に国民投票法が施行される憲法改正問題では、何らかの改正を支持する「改憲容認派」が64・6%に上ったが、9条改正に限ると55・7%が反対していることが分かった。集団的自衛権行使に関しても48・7%が憲法改正だけでなく、解釈見直しも否定し、「一切認めるべきではない」と答えた。
 自民党は参院選公約に2010年の憲法改正発議を掲げた。しかし発議には衆参両院で3分の2以上の賛成が必要で、今回の参院選惨敗により、自民党の目指す9条を含む改正は一層厳しい状況となってきた。
 政党別では、民主党は「9条以外の部分的改正に賛成」「改正反対」が計68・5%。これに対し自民党は「全面改正」「9条含む部分的改正」が計68・8%と対照的な結果となった。
 集団的自衛権の行使については、自民党が憲法改正または憲法解釈見直しによる容認派が計78・1%に達したが、公明党は逆に当選者全員が「一切認めるべきではない」と答え、自公の見解の違いが明確になった。

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February 18, 2007

安倍政権は国民を機械扱いするのか

 ホワイトカラー・エグゼンプションは、マスコミから残業代ゼロ法案という的確な名称をつけられたこともあって、通常国会への提出は見送られた。しかし、政府・与党は参院選後に改めて国会に提出することを考えているといわれる。それならば、参院選で導入の是非について問わなければいけないが、安倍首相から聞こえてくるのは憲法改正ばかりで、その気配はなく、残業代ゼロ法案は参院選後まで隠そうとしているようだ。

 柳沢厚労相の産む機械発言が問題化するなか、また新たに「工場労働者は時間だけが売り物」という発言をした。野党議員から「男は働く機械だとでも言うのか」と言われても仕方がない。

 柳沢厚労相の問題発言は単なる失言ではなく、安倍政権の復古主義的な思想が表に表れたとみるべきだろう。男は働く機械、女は産む機械、そして国民はお国のために尽くすべしという、戦前の国家主義的な思想である。

 戦前に戻ることに賛成する国民は少ないと私も思う。しかし、残業代ゼロ法案は米国でも行われていて、米国の意向でもある。実施するときには、国民の高所得者や公務員への嫉妬、妬みといったものを利用して、国民をうまく懐柔しながら、段階的に対象者を拡大するのだろう。

 残業代ゼロ法案は、財界と米国の意向により政府・与党が労働法を形骸化させてきた近年の流れの中で、とどめの一撃ともいえるものだ。米国でもやっているのだからと、民主党の一部の議員(旧自由党)も賛成するかもしれないが、サラリーマンはいい加減に目を覚まさないと取り返しのつかないことになる。

参考ブログ等
残業代ゼロ法案問題点と今後は(東京新聞)
「工場労働者は時間だけが売り物」柳沢厚労相さらなる仰天発言!(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)

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October 28, 2006

「I'M WITH STUPID」−政治家の嘘を許さないイギリス国民

あぁ、僕は賛成だよ
あぁ、僕は(“愚か者”と)同じ意見だよ
「I'M WITH STUPID」PET SHOP BOYS

「このシングルは、どうしてその相手と付き合っているのか、自分以外、世界中の誰も理解することができないっていう状況について歌っているラヴ・ソングなんだ。これはまたブレア首相とブッシュ大統領との関係を、ブレア視点から描いている諷刺でもあるんだよね」(ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナント)

 ブレアが大量破壊兵器の嘘をついたことに対して、イギリス国民は最後まで許さなかった。ブレアは退陣を表明し、後継がブラウン財務相に決まらないこともあって、労働党の支持率は低迷したままだ。

 それに対して、小泉首相もイラク戦争を支持してイラクに自衛隊を送ったが、多くの日本国民は最後まで小泉首相を支持し続けた。

 政治家の約束、発言の重みというものに対して、日本とイギリスの国民では捉え方がまったく違う。そのことが、日本とイギリスは同じ議院内閣制をとっているにもかかわらず、政治のあり方が大きく違う一因でもある。

 二大政党制という外面を真似するだけでは、いつまでたってもイギリスの政治に追いつけない。それどころか、似たり寄ったりの二大政党で国民の選択肢が狭まり、与党についた方が数の力に任せて専制政治を行う。どれも日本人が政治というものを蔑視し、議論というものを軽視した結果だろう。当然の報いかもしれない。

 従来からの政治手法を続けて、地元への利益誘導を狙う地元有力者と地元財界、その一方でそんな政治に諦めをつけ、政治を卑しいものとして蔑視するサラリーマン層の庶民。先週行われた衆院補選や首長選の選挙結果からは、そんな状況がみえてくる。棄権する庶民が多いので、選挙結果と民意にずれがでてくるが、当選者は数の力に任せてしまう。そこで、庶民の政治不信はさらに深まる。

 政治不信の悪循環はいつ止まるのだろうか。それがいつになるにしろ、止めるのは庶民自身であるから、庶民自身が政治に関して賢くなるしかない。その際、イギリスが大いに参考になる。

 なぜ、ペット・ショップ・ボーイズが政治的な歌を歌っているのか。それは、日本と違って、イギリスの国民が政治的に成熟しているからだろう。

参考WEB
英与党労働党支持率、87年以来の低水準に落ち込む=世論調査(ヤフー・ロイター)

参考バックナンバー
『ブレア時代のイギリス』−イギリスの労働党と日本の民主党

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October 22, 2006

日本人の戦争体験と奴隷根性−『民主と愛国』

 小熊英二著『<民主>と<愛国>−戦後日本のナショナリズムと公共性』は、分厚い本だったが、意外と読みやすい本だった。
 本の内容は一言ではとても言い表せないのだが、ポイントとしては次の二点ではないかと思った。戦前、戦中、戦後と日本人の奴隷根性は変わらなかったこと。同じ時代であっても、戦争体験の違いによって、その人のものの見方が他の人と大きく変わること。

 個人的な感想としては、戦争という内容なので仕方がない面もあるのだが、何か暗い情念に満ちていて、読んだ後、自分の目が血走っているのがわかった。さらに、戦争と政治に興味はあっても、戦後民主主義と戦後知識人にはそれほど興味がわかなかったので、どちらかというと、まだ全部読んでいないジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』の方が私の好みだった。そんな私の好みはともかくとして、『<民主>と<愛国>』が『敗北を抱きしめて』に並ぶ傑作であることは間違いないだろう。

 余談になるが、吉本隆明と江藤淳が対照的な性格であることが印象的だった。たくましい(溺れても死なない!)吉本隆明に比べて、妻を追って自殺してしまう江藤淳。大江健三郎の『万延元年のフットボール』について、大江に「いつまでもそんなことをしていると大人になれないぞ」というような批判をした江藤に対して、大江は「江藤さんは自分の内面を誠実に見ている人だと思うけれども、他人の内部についてはあまり誠実に見ないと思いますね」と江藤に指摘したという。私も、江藤淳は問題があったとしても、基本的には誠実でいい人だったのだろうと思った。

 ここからようやく今回の本論に入るのだが、分厚い本の中から、私が興味深いと思った、戦時中と60年安保の話を抜粋したい。
 安倍首相が祖父である岸元首相を良く思いたい気持ちはわかるが、60年安保の採決でヤクザを使って、与党にも知らせないで独断で強行採決してしまった岸の政治手法を知っていれば、岸に対して弁護の余地もないはずである。よく誤解されているのだが、60年安保では、安保改定の是非以前に、民主主義を否定するような岸の政治姿勢が問題とされたのである。

第1章 モラルの焦土
p.33-34
 元連合艦隊参謀長の日記によると、「大和」出撃のきっかけは、海軍の軍令部総長が、沖縄への特攻作戦計画を天皇に上奏したことだった。そのさい、「航空部隊丈の総攻撃なるや」と天皇の質問があり、総長がその場で「全兵力を使用致すと奉答」したのである。
 こうして、何らの準備もないまま急遽出動を命じられた艦隊は、一方的な空襲をうけて壊滅し、四千名ちかくが死んだ。しかし、そうした命令を下した命令官や参謀が、作戦失敗の責任を問われることはなかった。
(中略)
 特攻隊員の遺書をはじめ、兵士の手紙は軍に検閲されており、定型的な美辞麗句以外の内容は書けなかった。いわゆるエース・パイロットとして知られる坂井三郎は、戦後のインタビューでこう述べている。「当時の新聞でも、海軍部内広報でも、敷島隊(最初に認定された特攻隊)が壮烈なる体当たり攻撃をやった。これによって、海軍航空隊の士気が高揚したと書いてある。大嘘。士気は低下しました。」「全員死んでこいと言われて、士気が上がりますか。……間違いなく下がったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」

p.63
 丸山眞男は1951年の論文で、戦前の教育は個々人の責任意識に根ざした愛国心を育てたのではなく、「忠実だが卑屈な従僕」を大量生産したにすぎなかったと論じている。評論家の小田切秀雄は1946年に、「鬼畜米英」から「民主主義」礼賛に衣替えした者たちを評して、「このような手合には本来『転向』などというものはあり得ない」「迎合するに当ってご主人が変ったというに過ぎぬ」と形容した。

第12章 60年安保闘争
p.507
 1956年の教育委員会法案も、警官隊を導入して強行採決が行われたが、新安保条約の採決はそれ以上に暴力的なものであった。この5月19日に、岸を中心とした自民党主流派は、議員秘書のうち女性や老人を青年名義にとりかえ、総勢六百名ちかい「秘書団」を編成した。社会党側はこの日の午後、本会議場の外交官専用傍聴席に、自民党が雇った「ヤクザ風の男」たちが集結していることに気づいた。

p.509
 この強引な採決方法は、じつは自民党内でも、十分に知らされていなかった。清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側近に促された議長が新安保条約採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが実情だった。
(中略)
その重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員27名が欠席した。
 その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫や河野一郎も退席し、病気療養中だった前首相の石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて、おこって寝てしまった。」議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろう』と暗然とした」という。

p.510
 元A級戦犯である岸が、アメリカの好意を買うために強行採決を行ったとみなされたことは、強い反発を買った。『東京新聞』のコラムは、岸を「天皇の名によって戦争という大バクチをやり、甘いしるを思いきりすった、このキツネ」と形容し、「アイクの訪日も、トラの威をかりようとするキツネの悪ヂエ計画だ」と評した。

p.511
 さらに鶴見俊輔は、こう述べている。

 ……戦時の革新官僚であり開戦当時の大臣でもあった岸信介が総理大臣になったことは、すべてがうやむやにおわってしまうという特殊構造を日本の精神史がもっているかのように考えさせた。はじめは民主主義者になりすましたかのようにそつなくふるまった岸首相とその流派は、やがて自民党絶対多数の上にたって、戦前と似た官僚主義的方法にかえって既成事実のつみかさねをはじめた。それは、張作霖爆殺−満洲事変以来、日本の軍部官僚がくりかえし国民にたいして用いて成功して来た方法である。……5月19日のこの処置にたいするふんがいは、われわれを、遠く敗戦の時点に、またさらに遠く満洲事変の時点に一挙にさかのぼらした。私は、今までふたしかでとらえにくかった日本歴史の形が、一つの点に凝集してゆくのを感じた。

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October 01, 2006

トクヴィルを手がかりに民主主義を考える(3)

 前回に続いて、『アメリカのデモクラシー』第1巻から、民主主義に関して、私なりに抜粋したものを紹介したい。
 引用した部分は、大衆政治の欠点、自由と専政、地方自治、多数の専政等について。
 チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と言ったのは有名だが、トクヴィルを読んで、民主主義は大変な労力を必要とするものだと改めて思った。試行錯誤が大事とはいえ、戦争になってしまっては元も子もないので、民主主義といっても、外交はある程度貴族的な外務官僚に任せておくのも大事ではないかと思った。北朝鮮問題で国民感情が揺れていて、タカ派の安倍政権が発足した現在は、なおさらである。

 以下、引用は、トクヴィル著、松本礼二訳『アメリカのデモクラシー』第1巻(下)(岩波文庫)から。

第5章 アメリカの民主政治について

p53-54
 民衆の知識をある一定の水準以上に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。
 つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界を成しているのである。
(中略)
 民衆はいつも瞬時に判断しなければならず、もっとも人目を引く対象に惹かれざるを得ない。このため、あらゆる種類の山師は民衆の気に入る秘訣を申し分なく心得ているものだが、民衆の真の友はたいていの場合それに失敗する。

p56
 民主政治の自然の本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。

p107-108
 すなわち、民主主義の政府が他の政府に比べて決定的に劣ると思われる点は、社会の対外的利害の処理である。民主政治にあっても、経験を積み、習俗が落ち着き、そして教育が広まれば、ほとんどどんな場合にも、良識と呼ばれる日常の実際的知識、生活上の小さな出来事を処理するあの知恵はいずれ形成されるものである。社会の平常の営みには良識で十分である。そして教育が行き渡った国民においては、民主的自由の内政への導入が産む利益は民主主義の政府の誤りがもたらすかもしれない害悪より大きい。だが国家間の関係はつねにそれでは済まない。
 外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要ではなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される。

第6章 アメリカ社会が民主政治から引き出す真の利益は何か

p127-128 
 自由である術を知ることほど素晴らしいことはないが、自由の修業ほどつらいこともまたない。専政はこの反対である。往々にしてそれは多年の苦しみを癒すものとして登場する。権利を支え、抑圧されたものを助け、秩序の礎をおく。人民は専政が産み出す一時の繁栄に眠り込み、目を覚ましたときには悲惨な境涯におかれている。自由は逆に、激動の中に生まれるのを常とし、国を分裂させて容易に根づかない。時を経て古くなったとき初めて、その恵みに気づくのである。

p134
 ある種の国では、法律が参政権を与えても、住民が嫌々ながらにしかこれを受け取らない。公共の問題に関わるのは時間の無駄のように思って、狭い利己主義に閉じこもり、垣根をめぐらした四囲の濠割りから一歩も出ない。
 これに対して、アメリカ人が万一、自分自身の仕事以外に没頭するものがないという事態におかれたならば、その瞬間から彼の生命の半ばは奪われたも同然だろう。

p134-135
 疑いもなく、人民による公共の問題の処理はしばしばきわめて拙劣である。だが公共の問題に関わることで、人民の思考範囲は間違いなく拡がり、精神は確実に日常の経験の外に出る。庶民の一員にすぎなくとも社会の統治を任されれば、自分にある種の誇りをいだく。権力の地位にあるとなると、学識に秀でた人々が彼に助力を申し出る。彼の支持を得ようと接触してくる者がひっきりなしにあり、さまざまなやり方で人をだましにかかる連中を相手にしているうちに、利口になるのである。

第7章 合衆国における多数の全能とその帰結について

p150
 そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく、暴政に抗する保証がほとんどない点である。
 合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか。世論にか。多数者は世論が形成するものである。立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する受動的な道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利を持ったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるをえないのである。

p153
 それに国王のもつ力は物理的な力にすぎず、臣民の行為を規制しても、その意志に働きかけることはできない。ところが多数者には物理的かつ精神的な力があり、これが国民の行為と同様、意志にも働きかけ、行動を妨げるだけでなく、行動の意欲を奪ってしまうのである。
 総じてアメリカほど、精神の独立と真の討論の自由がない国を私は知らない。

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